「終わらない日常」の「終わり」(アニメ「けいおん!!」感想)

こんにちは、じゅけいです。

 

年末年始にやっていた無料放送をきっかけにちまちま見ていたアニメ「けいおん!」と「けいおん!!」(以降は前者をけいおん1期、後者をけいおん2期と表記します。)最近やっと2期の最終話まで見終わりました。

この後番外編とか劇場版とかあるわけですが、これで一旦の区切りとなります。

最近「10周年!」で盛り上がってる作品の初見感想というのは今更にもほどがあるのですが、良い作品だったので、何か書こうかなと思います。

けいおんを見て思ったことというのは色々あるのですが、その一つが「「終わらない日常」の「終わり」を強く実感させられる作品である」ことです。

 

けいおんという作品は典型的な日常系です。楽器を弾いているより紅茶を飲んでいる時間の方が長いんじゃないかというくらいのんびりした軽音部の日常風景や学校行事を描いています。

日常系というジャンルは定義付けが難しいジャンルなのですが、1つの特徴として、「明確な終わりが存在しない」ということが挙げられると思います。

普通の物語は「魔王を倒す」とか「世界の危機を救う」とかそういう大きな目的を目指して行動しています。したがって大きな目的を達成したら物語が終わってしまいます。対して日常系は、そういう大きな目的を目指す過程を描いているわけではありません。今日も明日も、一週間後も続くであろう日常を描いています。だから終わらないのです。

大きな目的が存在せず終わりがないことを「話に動きがなくてつまらん」と表現する人もいますが、それによりゆったりまったりした空気感が生まれ、その空気感が日常系の魅力となっていると思います。

そのため、基本的に日常系のアニメの最終回は「終わった感」が薄いです。最終回の後も、登場人物達はこれまでの話同様のゆったりした日常を過ごすのだろうなあということを強く感じます。

 

しかしそんな日常系の中で、「けいおん」2期は「終わり」を強く感じさせられる作品だと感じました。①「桜が丘高校における軽音部の立ち位置」②「通常時間軸の1年を2クールで描く余裕のある構成」③「軽音部唯一の下級生である梓の存在」の3点が理由です。

 

①「桜が丘高校における軽音部の立ち位置」

2期における軽音部は、これまでの学祭ライブなどの成功によって、「人気者」に近い地位を得ていたと考えられます。3年生の学園祭では、超人気バンドのライブかと思うくらいの盛り上がりぶりを見せていたことからも伺えると思います。

また、担任かつ顧問の山中先生とは良好な関係が出来ています。他の教職員から煙たがられるとかそういうのも無さそうです。

軽音部は、学校全体を味方につけ、学校全体を使って学生生活を楽しんでいると言えます。

部活を舞台とする日常系アニメの中で、これと同じ状態で学生生活を過ごす主人公というのはあまり多くないのではないでしょうか。たいていの場合、部室が自分達の城となっており、そこの中で自由気ままに過ごす...という場合が多いと思います。(「ゆるゆり」とか)部外の人間が関わることも多いですが、学校全体とかクラス全体を巻き込むのはそう多くないと思います。

桜高軽音部にとって、桜が丘高校や、先生や、部外のクラスメイト達は、彼女たちの楽しい生活を構成する要素として結構大きい比率を占めているでしょう。作中で描写される彼女たちの楽しい生活は、桜が丘高校のあの軽音部部室、クラス、学校行事の場でしか生まれないものであったように思えます。おそらく、ライブハウスだとか大学の軽音サークルが舞台であったならば、あの空気感は出ていなかったのではないかなあと思います。

 

②「通常時間軸の1年を2クールで描く余裕のある構成」

けいおん2期は、3年生の1年間を2クール24話かけて描くという非常に余裕のある作りをしていました。彼女たちの3年生としての生活は、それまでの2年間に受験勉強が加わったくらいで、そう密度としては濃いものではありませんでした。

むしろ、廃部の危機からほぼ未経験者の部員をかき集めて創部した1年目、新入部員加入と方向性の対立、学祭ライブでのゴタゴタがあった2年目に比べると薄いものであったといえるでしょう。

そんな平和で安定した1年を2クールかけて描くことで、季節毎どころか一月毎の日常エピソードを織り混むことが出来ていました。それにより、①で述べた学校全体を使って学生生活を楽しむ軽音部員達の姿が細部まで描かれ、あたかも彼女たちが現実世界で本当に暮らしているかのような感覚を覚えさせていました。

 

③「軽音部唯一の下級生である梓の存在」

そしておそらく最大の要因といえるのが、梓の存在です。彼女は軽音部において唯一の下級生でした。唯たちが卒業することでひとりぼっちになってしまいます。

卒業により楽しい学生生活が終わり同級生達と別れることは、もちろん本人にとって非常に寂しいものです。一方で、次に待つ新生活への不安と楽しみが混ざったような感情も存在しているでしょう。

しかし、残された梓はどうでしょうか。唯たち先輩が卒業した後に残るのは、自分以外誰もいなくなった部室。楽しい日常の最も大事な構成要素が抜けた、いわば抜け殻です。彼女にとって先輩の卒業とは、大好きな先輩たちとの別れというものでしかありません。当事者以上に寂しさを感じていたと思います。

けいおん2期では、夏頃を過ぎると「卒業」というものを梓を通して意識させるシーンがたびたび出てきます。(梓が夢オチばかりする13話とか)

彼女の存在によって、「これまでの日常の終わり」としての卒業が強調されたのではないでしょうか。

 

 

楽しい日常でなければ終わることに対して感慨は生まれませんし、唯たちは同じ大学へ行く以上、残される者の存在がなければ、卒業には「日常の終わり」というより「新しい日常の始まり」という要素も十分に残ります。

しかし、①桜が丘高校の軽音部ならではの生活を、②2クールかけて丁寧に描写していたことで、彼女たちの日常は非常に楽しく素晴らしいものであったこと、そしてその日常が確かに存在していることを認識させられました。③その中で何度も梓の目を通して卒業を意識させることで、その確かに存在する楽しく素晴らしい日常が「終わる」事の寂しさ、日常の儚さを感じさせられたのかなあと思います。

 

日常系は話の都合上、「終わらない日常」という概念が前提として存在します。けいおんは、その日常もやはり「終わってしまうんだ」ということを意識させてくれます。どんなにありふれているような気がする日常も、いつかは「終わってしまう」ということを改めて我々に教えてくれます。

 

そう思うと、私たちが過ごす現実世界の見方にも、いくらか影響をあたえてくれるのではないでしょうか。

 

 

 

なんか説教臭い感じで締めてしまったので余談として、私の推しキャラについて書こうと思いましたが、なかなか出てきませんでした。というのも、みんなみんな魅力があり決められないのです。優れた日常系アニメってのは登場人物みんな魅力的であるというのも私のひとつの持論ですが、これについてはまた機会があればかきます。