「留年」が作る日常系作品としての魅力 『またぞろ。』感想

はじめに

まんがタイムきららキャラットにて連載されていたまたぞろ。はここ数年の漫画の中で最も楽しみにしていた作品といっても過言ではありませんでした。生来きららは気に入った作品を単行本で追うタイプでしたが、またぞろきっかけで本誌を追いたいと割と本気で考えていました。(3巻が出たタイミングで…と思っていたが3巻で完結だったのでいよいよかないませんでしたが)なぜそこまでの魅力を感じていたのか記録しておきたいと思います。

 

またぞろ。と「留年」

またぞろ。は主人公の穂波殊・広幡詩季・六角巴の高校留年生(高校1年生2回目)3人組とそのクラスメイトの留年予備軍(高校1年生1回目)である阿野楓の計4人をメインキャラとして据えて、彼女たちの高校生活を中心に描く作品です。日常系に分類されると考えています。日常系はきららを象徴するジャンルで、実際にまんがタイムきらら系列誌には多くの日常系作品が連載されています。その中でこの作品が特殊なのが「留年」それも(少なくとも本人の認知として)メインキャラ3人中2人が自責理由で留年していることでしょう。*1Wikipediaでも「留年をテーマにした作品」という項目にまたぞろ。が載っています。*2ゆるキャン△でいうところの「キャンプ」。ぼっち・ざ・ろっくでいうところの「バンド」がこの作品においては留年なのです。

留年とは何か

「留年」とは何でしょうか。先述のWikipediaには「学校に在籍している児童・生徒・学生(在学生)が、何らかの理由で進級しないで同じ学年を繰り返して履修すること。」とされています。ここでは「何らかの理由」としてぼかされていますが、少なくとも今の日本においてはネガティブな理由(授業・講義に出ず単位が足りなかった等)でなされることの方が多いです。
授業・講義に出ないことの理由として挙げられるのは「心や身体が不調で学校に行けなかった」というものがまずあります。この文脈では「留年」はネガティブなイベントであるといえるでしょう。*3
一方、そういう雰囲気を持たない留年も存在します。心身ともに健康だがサークル活動とかバイトとか遊びに専念しすぎたみたいな理由で留年したというパターンだと、周囲から「気の毒」みたいな目を向けられるよりもむしろ「(やべーやつで)面白い」みたいな扱いをされている場合もあります。*4私の周りの留年生の中にもこういう人がいました。まあ本人からしたら留年は十分深刻な問題だと思いますが...。
このように留年の持つ性質というのは基本はネガティブですがそれに留まるものではなく、やはりwikipediaに書いてある通り「何らかの理由」というニュートラルな書き方をするのが一番正しいかもしれません。ただし「普通ではない」「正しくはない」という捉え方をされていることは確かでしょう。

さて、留年は基本的に「普通ではない」事象ですが、またぞろ。で主題となる高校留年というのは現代日本では猶更珍しいものとして扱われることが多いです。さすがに私も高校時代に留年した人は周りにいませんでした。特に高校までは、「同級生」という括りが変動することはほぼあり得ませんし、主要イベントもみんな同じタイミングで横並びに発生します(特に受験とか)*5そこから突然誰かが脱落するというのは、結構人間関係に与えるインパクトが大きいでしょう。

さて、ここまで述べてきた要素から、留年というのは下記の2要素を持っていると思います。

①    (良くも悪くも)不完全な個性の集積装置
②    同級関係(≒幼馴染関係)の解体と再構築(及びそれに伴う軋轢の発生)

日常系作品の魅力

またぞろ。は日常系作品であると述べました。私はこういった日常系と呼ばれるジャンルの作品が好きで、これまで見てきたアニメや漫画の半分以上は日常系です。そんな私の個人的な考えですが、日常系作品の魅力として下記3点があると考えています。

①    魅力的なキャラクター
②    笑い
③    好ましい世界(≒関係性、雰囲気)

この3点は、日常系作品の重要な構成要素であると私は考えています。私がいいなあと思う日常系作品にはこの3つが備わっていました。
そして、これだけでも素晴らしい日常系作品は成立するのですが、まんがタイムきらら系列誌の作品に関しては、近年の傾向としてそこに+α要素(強いストーリーとか)が備わっているものが多いように思います。現在絶賛アニメ放映中の星屑テレパスもその一つと言えるでしょう。

さて、先ほど留年の持っている要素を2つ上げましたが、この要素を利かすことで、またぞろ。は上記3点+αの魅力を備える作品となっていると感じました。それゆえに私はこの作品を魅力的に感じていたのだと思います。

どういうことか簡単に書くと以下の通りです。

  • 魅力的なキャラクター(可愛い絵柄+留年という不完全な個性によって作られた魅力的なキャラクター達)
  • 笑い(全体としてコメディタッチの作品ですが特徴を挙げるなら不完全な個性を持つ人間(特に殊)の言動)
  • 好ましい世界(人間の不完全性の肯定)
  • +αとしての、同級関係(≒幼馴染関係)の解体と再構築(及びそれに伴う軋轢の発生)が生み出す読み応えある人間関係ストーリー

さて、魅力の概要を書いたところで、細かい話に入りますが、既に2000字超えているので全部を細かく書くとマジで1万字超えの超大作になりそうです。ということで「好ましい世界」の部分のみを掘り下げます。

未読の方向けにここで一旦まとめ

この作品で扱われる「留年」という事象にまさに自分も置かれている方もいるかもしれませんが、そういった方が読むにはかなり適した世界観を持っている作品であるように感じます。「留年」に至った人のうちそれなりの割合の人が「不完全を完全に近づける」取り組みをしていたはずです。そしてうまくいかなかったという人も一定数おり、そんな自分に嫌気がさしたり、人生全般が嫌になったりする人もいるのではと想像します。この作品は「不完全を完全に近づける」という現代社会で主流な価値観とはやや異なる価値観(=不完全なものを必ずしも完全にしなくてもいい)を提示してくれています。そんな価値観は今現在苦境に立たされている人にはかなり魅力的に映るでしょうし、人生を好転させるヒントを与えてくれる…かもしれません。分かりませんが。
そもそもとして、日常系自体が苦しい環境下の人間にとってはかなり親和的なジャンルです。*6今リアルが大変な人も、別にそうでもない人も、是非一度読んでみてはいかがでしょうか。


では、ここからはしっかりめにネタバレを混ぜますので、未読でネタバレ踏みたくない方はここで閲覧をやめておくことをお勧めします。気にしないor既に全部読んだ方は、続きをどうぞ

好ましい世界観(人間の不完全性の肯定)

留年を「不完全な個性の集積装置」と書きました。それをメインテーマにしたこの作品は全体として、不完全なものに親和的な世界になっています。そしてその不完全性を完全なものへと近づけるわけではなく、不完全なままでいることを肯定してくれているように感じます。
本作の不完全の象徴たる人間へたくそ主人公の穂波殊さんを通してみるのが最もわかりやすいと思いますので、以下に具体例を挙げていきます。

しっかりしなくてもいい

本作最大のボス(?)といえば堤麻里矢さんでしょう。彼女は殊の幼馴染であり、人間へたくその殊と仲良しで、そして生活のあらゆる場面を助けていました。一生こうやって仲良くしていくと思っていたはずですが、高校受験で進学先が分かれたことをきっかけに殊から「しっかりしないといけない」という理由で高2が終わるまで会わないようにしようといわれます。
しかし殊はしっかりすることができず高校1年生2周目をやることになり、麻里矢とは一生会うことができないなと思いながら留年生活最初の1学期をどうにか乗り越え、最終日に明日から夏休み!というテンションのまま遊んでいたらばったり街中で遭遇+勝手に楓に留年カミングアウトされてしまいました。
このまま夏休み期間に入りますが、途中で麻里矢による殊の「しっかり計画」が始まり、殊は本当に人が変わり一時的にしっかりしました。普通の作品だとここから紆余曲折ありつつも殊が徐々にしっかりしていくのでしょうが、そうはいかないのがこの作品の面白いところです。
二学期が始まりましたが、夏休みをかけてしっかりしていった殊の実力を試すイベントである文化祭では結局彼女はしっかりできず、麻里矢に何がしたいのかと問い質されます。殊はその問いに対しても「どうなんですかね?」と返す始末で、結局再度疎遠になってしまいます。なんやかんやあって最終的には麻里矢と殊は和解するのですが、和解時に麻里矢から殊は、しっかりしないといけないというのは私の考える幸せに基づいた行動でありそれは必ずしも殊自身の幸せとは限らないのだと気づいた旨を伝えられた上で、「しっかりなんてしなくていいよ」と言われます。作品世界の主人公が持つ不完全な個性は一般的には克服されるものとして登場しますが、この作品ではそのままにされているのです。

しっかりはしていないけれど

殊と麻里矢が和解した際のやり取りにおける重要な点として、殊の長所への言及があります。それはまとめるならば「愛され力が高い」というものでした。彼女は人の好意を全面的に受け入れて応えてくれる人であり、いわば助けられるべくして麻里矢に助けられたわけです。
留年を通して素直さみたいなものはなくなった気もしますが、片鱗は十分残っているのか、麻里矢のいない四辻では詩季が自分の意志で進んで殊の生活を助けることになります。更に3巻序盤では過保護気味の姉である日詠に、詩季を反抗させる力として機能します。
殊は不完全ですが長所はあり、不要な存在では決してない(詩季の言葉を借りると「いてくれるだけで皆の為になっている」)わけですね。

最終話

いきなり話が飛びますが最終話の話をします。最終話は2年生へ進級した教室から始まります。ちょうど1年前にあたる1話とシンクロさせるような構図で進んでいきます。
結局最終話でも殊は人間がへたくそなことは変わっていません。1話と同じように教室のドアの敷居に躓いてこけることすらします。多分今朝も詩季からモーニングコールをもらってようやく遅刻せずに済んでいるでしょう。
ただ1話と違うのは、最終話ではこけた後にそれを素直に笑い飛ばすことができていること。そして不登校にまでなってしまった彼女が学校を楽しむことができていることです。
結局しっかりできていないけど、心と環境は変わっているわけですね。最終話を読んだ時、これを明確に感じられるこの構図はうまいなあと思いましたし、殊も楽しく学校生活を送れるようになって良かったと感慨深い気持ちになりました。

不完全なものは不完全なままでもよい

このように殊は、自分の不完全性(人間がへたくそであること)を嫌というほど突き付けられつつもそれを矯正するのではなく(というか矯正はできず)、認めてくれたり助けてくれたりする友人を見つけることで楽しい学校生活を過ごすことができるようになりました。
この不完全な自分を完全へ矯正するのではなく、できることできないことを把握した上で(彼女は「できること」には自覚的ではないかもしれないが)時には他人の助けや環境の力も借りつつ生きていってもいいんじゃないかという価値観が、非常に私個人の感性に合っています。それゆえに私はこの作品を好ましいと感じ、非常に気に入ったのだと思います。

 

おしまい

*1:またぞろ。連載開始時にアニメ化まで果たしていた『スロウスタート』は浪人をテーマにした作品ですが、花名ちゃん等浪人組は病気等やむをえぬ理由でしたね

*2:ちなみにWikipediaでは留年は「原級留置」という言葉で立項されています。なんかかっこいいですね。

*3:作中でも、詩季は作中時点では完治していますが病気で出席日数が足りなかったため留年しています。殊は体調には問題ありませんでしたが朝起きれず遅刻とか忘れ物しまくる等して学校生活に適応できなかった末に不登校になり留年しています

*4:作中では、巴はこっちサイドの扱いを受けていますね

*5:大学だと理系は大学院に進むこともざらなので就活のタイミングがストレートに進級しても異なります

*6:完全に余談ですが、私が大学で会ったオタクの一定数は浪人中にアニメや漫画にはまってオタクになっていました