休みの時間の使い方って仕事のそれよりも難しいんじゃないか

こんにちは、じゅけいです。

 

これを書いている現在は1月19日土曜日になったばかり、カレンダー通りで動く仕事をしている私にとっては楽しい楽しい週末の始まりです。

 

仕事から帰ってきてから、現在に至るまでの数時間も実質的には休日といえるでしょう。しかし何故か休んだ気がしませんでした。

休みに何をしようか考えていてむしろ疲れたからです。

 

  • 「貴重」な「休み」だからこそ自己満足を追求したい

おおむねカレンダー通りに休みがある仕事をしていると、年間に休日は大体110日~120日くらいでしょうか。

これは日本のサラリーマンの中では決して少ない方ではありませんが、それでも1年の1/3あるかないかくらいです。

つまりは「貴重」な休みです。

 

そして、「休み」です。「休み」なのですから、何か楽しいことがしたい。いや、体をのんびり休めて平日の仕事に備えたい。いやいや、今後のことを考えて色々勉強しないといけない。

こんな感じでやりたいことがたくさんある上に、その方向性がバラバラです。

しかも、勉強はまだしも、「体が休まった状態」や「楽しい」は極めて主観的かつ数値化が難しい概念です。というかもはや自己満足です。

ということで個人的には休みは「自分の意思で自分が満足するように過ごせばいい」と考えています。

 

そして先述したとおり社会人にとって休みは「貴重」です。

「貴重」な休みだから、毎度毎度の休みできっちり「自己満足」を追求したい。

満足度が不十分だとなんだか悔しい。

まあ自己満足ですから、極端な話なんでもいいんですが、だからこそ難しい。

  • そもそもどうすれば自分は満足するんだっけ?

社会で生きるなかでは、自分の意思だけを突き通して生きることはできず、「空気」だとか「周囲の期待」に合わせて生きることなります。

そうして生きているうちに「自分の意思」がなんだったかを思い出せなくなります。

しかも、「楽しいことがしたい」「ゆっくりして体を休めたい」などの目標を、どうにか自分の意思を絞り出して決めたとしても、その目標を達成するために「やるべきこと」の選択肢は大量にあり、しかも何をすればどれくらいの「楽しい」や「体力回復」が得られるかは状況次第です。

「目標」も「目標に至るまでの過程」もぼやっとしています。これでは自己満足というゴールに到達することは難しいです。そして日曜日の夜にゴールに到達できず、「悔しいなあ、もうちょいうまいこと休みを使えたかもなあ」と思うか、そもそも休みに何をするかきめかねるまま時が過ぎて、「あれ、何もしてない...」と気づき、愕然とするのです。

  • 時間の使い方を決めるという意味では仕事のほうが楽じゃない?

一方、仕事は目標が数値で示されていることが多いです。自己満足というようなふわっとした概念ではありません。(ついでにいうと「仕事には苦労が伴う」という認識があるので、自己満足度が低くてもある程度は割り切れます。)

また、目標が数値で示されているので、目標を達成するためにやるべきことはある程度はっきりしています。そもそも若手のうちはやるべきことは上司の指示によって決まるという場合も多いでしょう。そういった面では、「仕事」はある意味「休み」よりも過ごし方を決めるという点では楽だとすらいえるのではないでしょうか。

 

  • じゃあどうやって休みの時間の使い方を決めやすくするのか

休みに何をしようか考えて疲れるって本末転倒にも程があるしバカバカしい話です。どうにかして脱したいものです。

脱する方法としてパパッと思いつくのは以下の通りです。

 

  • 月の頭にやりたいことリストをつくって、それを週ごとに当てはめる。
  • 「自分の意思」が何かを把握する。
  • 何をすれば「楽しい」「体が休まった」などが得られるかを自分の中で把握する。

 

最初のは、要は仕事と同じようにやればいいのではってことです。毎週の週末にやることをタスクつぶしにするのです。事前にタスクがきまっていれば、そのタスクを達成するために何が必要か(親タスクに対する個タスクってことでしょうか)も分かるので効率的に進められます。しかしこの方法だと、月の頭と、月の中間、最後にはやりたいことが変わっている可能性があることです。

 

なので理想は、「目標」と「目標を達成するための手段」を素早く正確に、例えば平日のうちに決められるようにすることです。これが後ろ2つの手段です。まあどちらも、どんなとき自分がどう思ったかを記録して、その記録を蓄積すればわかるでしょうか。

  • 休日に自己満足を追求できるのっていつまでだろう

考えているうちに思ったのですが、そもそも「自分の意思で自分が満足するように過ごす」ことを志向すること自体、年を経るごとに難しくなるかも知れません。プライベートでは家族ができますので、家族サービスとか諸々を行うことになります。仕事でも、接待とか付き合いとか、休日なのに自分の意思と関係ないところで行うべきことが増えます。真に、「自分の意思で自分が満足するように過ごす」ことができるのもこの若いうちだけなのでしょう。

だから年を経れば休みにすることが決まらなく疲れるという現象もなくなるのかもしれないです。そう思えば別に現状に対して何かやる必要があるわけでもないともいえそうです。

ただ、今の社会では「自分の意思」というのは結構大事ですので、「自分の意思」をとぎすますという意味でも、この現象にちゃんと向き合うことは大事なのかもしれません。

 

さて、結構長くなってきましたし手も疲れたので、これくらいにしておきましょう。

 

おしまい。