「推し」のいない人間から見た「推しのいる幸せ」

こんにちは。じゅけいです。

皆さんには「推し」がいますか?

私にはいません。

 

私の友人がこんなツイートを紹介していました。

私には推しがいませんが、私は「推し」がいることは非常に素晴らしいものだなと思っています。

 

 

私の周りにはオタクが多いです。

彼らは、普段は外に出るのが億劫だと言っているのに、推しが出るイベントとあらば日本全国どこへでも飛んでいきます。

いつも数百円、数十円単位で節約しているのに、推しのグッズや推しのコンテンツには万単位で際限なく金を使います。

中には、推しから認知*1を受けるような、相当上位のオタクもいます。

 

彼らは、推しにものすごい金と時間と労力を費やしています。それを大変そうだなあと思うときもあります。

しかし、「推し」がいない私から見ると、彼らは非常に幸せそうです。たまにうらやましいとさえ思います。

なぜ私はそう思うのでしょうか。その理由について書いていきます。

 

私は今年から社会人として働き始めました。

社会人としての暮らしは学生とは全く違い、大変なことが多いです。自由な時間もかなり減り、趣味に使える時間も少なくなります。そうするとこれまでやっていた趣味からも「時間がないから...」と遠ざかってしまいます。

そんな社会人生活の中で、時々「私は何のために生きているんだろう」「私は何を楽しみに生きているんだろう」と思うときがあります。

 

一方で、「推し」のいる友人達は、ある意味「生きる目的」が明確です。

推しのコラボグッズやキャンペーンがあれば、店をひたすらまわってグッズを集めています。

推しのイベント参戦の機会に恵まれれば入念な計画を立ててその日を指折り数えて待ち、イベント当日は本気で楽しんでいます。

そういった機会がないときも、推しのブログやSNSを入念にチェックし、その活躍を喜び、「イベントやグッズの為」「推しもがんばってるんだから」と推しをモチベにして日々の仕事に取り組んでいます。

「仕事の疲れも推しの顔をみると吹っ飛ぶ」と語る友人もいました。

そんな姿を見ると、子どもの頃の、やりたいことをいかにたくさんやるかを考え、人生を心から楽しんでいた日々を思い出します。

「推し」のいる人たちは、(少なくとも推しが存在する間は)子どものような無邪気な心を持って人生を本気で楽しむことができているように私には見えます。

だから私は、推しがいることは非常に幸せなことだと思うのです。

そして、推しがいなくなったとしても、「何かを本気で好きになり、それに熱中していた記憶」や、そのときに築いた人間関係は残ります。

これらは自分の人生の糧になるのではないかと思います。

 

一定の年齢を重ねた人にとって、本気で何かを好きになる、本気で何かに熱中するということは、簡単なことではないと思います。

だから、今自分に推せるものがあるという方は、推せるものがあるという幸せを大切にしてほしいなと思います。

 

ここまで私は「推し」のいる幸せについて書いてきました。読んでいる中で「これって、スポーツなり仕事なりに熱中する人についても言えるんじゃないの?」と言う方もいると思います。

その通りです。「推し」のいる幸せは、仕事や特定のスポーツ等に熱中する幸せとだいぶ重なると思います。

しかし、熱中する対象について、「推し」という表現をするような類の趣味は、社会的には疎んじられるようなものが多いです。それ故に、そういう趣味を持つことに対し、引け目を感じる人もいると思います。

だからこそ、私はどんな対象であろうと(それが法に触れない限りは)何かに熱中し、何かを本気で好きになることは素晴らしいと言いたいのです。

 

なんか偉そうなことを書きましたが、私もまだまだ若いです。自分の「本気で好きなもの」は何かを探すにはまだ遅くはないと思うので、探していきたいなあと思います。

 

おしまい。

 

 

*1:推しから顔や名前を覚えてもらうこと。アイドルや声優のファン達の間で主に使用される言葉。